ムーンライトドレープに包まれて


 ガロさんは、ふしぎなひと。
 何がふしぎなのかって問われると、一概には言えないけれど、例えば決して隙を見せないところとか、全く足音がしないところとか。ふしぎじゃない? あと、身にまとう雰囲気ってやつが、洗練されてて心地いい。言うなれば、癒し系オーラを放っている。それにとっても身軽で、常人なら登ることすら困難であろう石壁をぴょんとひとっ跳びで超えてしまう。それは昔、ガロさんの格好を見て連想した職業のように(それを言ったら、渋い顔をされたので、もう言わないけれど)。
 ふわりと風が吹いた。ガロさんの顔隠しの布がはためいて、顔がちらちらと見え隠れする。綺麗に整ったガロさんの顔は、透き通ったうつくしさがあるけれど、そのせいかガロさんの横顔は冷ややかに見える。
 先ほどから何も言わずに、じっとガロさんを見つめていたせいか、ガロさんが怪訝そうにこちらを見て言った。
「何か、用ですか」
 首をふるふると横に振って、ない、という意を示すと、更にガロさんは怪訝そうな顔になった。――いや、嫌そうな顔になった、と言うべきかもしれない。嫌われたらいやなので、渋々と視線をガロさんから外して、ふうと息をついた。好きなひとだったら、横顔でも飽きないみたい。
 最近、魔物の動きが活発だ。新たな人間が谷に入り込んだのかもしれない。それとも、魔物にしか判らない、時代の流れが変わる兆候を感じ取ったのかもしれない。わたしにはどちらもわからない。わたしにわかるのは、動きが活発になってきた、という明白な事実。
 緩慢な死のかおりに包まれるこの谷に、訪れる者は殆どいない。わたしぐらい、と言っても過言ではないかもしれない。とはいえ、魔物に対抗する手段を持たないわたしに、この谷に入ることはなかなかの難業である。動きが活発になってきたおかげで、今や、怪我なしにガロさんの元へ辿り着ける日は少ない。
 なぜ、この谷に入るのか? それは全て、ガロさんのため。行き倒れていたガロさんを助けたのがきっかけで、傷が完治するや否や、谷に舞い戻ったガロさんを放っておけなかったわたしのお人よしのせい。そして、抱いてしまったひとつの想いのせい。
 自分は死した身だと常々主張するガロさんだけど、どう見たって彼は生きている。生きているのだったら、何かしら食べないと生きていけない。だから、わたしが食料を届けているのだ。少し離れた町から。
 けれど、やっぱりわたしにこの谷の空気は会わない。毒が混じったような、甘い香りは脳をくらくらさせる。気をしっかりと持っていなかったら、すぐに昏倒してしまいそうだ。それに、結局はガロさんに護られてばっかりいるのだ。これだったら逆に迷惑かもしれない。
 例えば。今でこそ、登れるようになった険しい崖だが、始めは全く登れず、立ち往生しているところを魔物に襲われ、運よくガロさんに助けてもらったことがある。あれは死ぬかと思った。そして、ガロさんに柔らかい声音でこっ酷く叱られた。毎日通っているうちに、次第に諦め(呆れ)られたけれど。他にも、魔物に襲われて逃げているときには、いつもいいタイミングでガロさんが助けにきてくれる。そのあと、怪我を手当てしてくれて、他愛のない話(と恒例になったお説教)をして、わたしを町まで送ってくれる。そのたびに、わたしは自分に都合のいいように考えてしまう。
「ゲルダさん」
 突然、呼ばれた。少しガロさんを見やってから、小さく首を傾げる。
「ゲルダさんはどうして、毎日毎日、私の元へといらっしゃるのですか」
 ガロさんの口調は静かで、それでもってとても真剣だった。その真剣さに報いなくてはいけないかなと、ガロさんに視線を向けたら、口調と同じような真剣な表情をしていた。厳か、とでも言ったらぴったりくるかもしれない。
「ご迷惑でしたか……?」
「いえ。お気持ちはとても嬉しいですし、ありがたいです。けれど、どうして見ず知らずの私にそこまで親切にしてくださるのか……それが不思議で」
 苦笑するガロさんに、わたしは口をつぐんだ。言えない。理由はとてもとても不純なものだから。
「ひみつです」
 そう言ってにっこりと笑ったら、ガロさんは面食らったように数回しばたいて、それから同じように微笑んだ。
「そうですか」
 ガロさんはまた、ついと視線をどこかにやった。ぼんやりとした視線の先は、空か山か。
 いつも思う。ガロさんは一体どこを見ているんだろうか、と。この谷を見ているようで見ていない彼の視線の先は、どこで留まっているのだろうか。
 素性を明かしてくれない秘密主義のガロさんに、わたしも少しだけ隠し事。ばれてもばれなくても、全然構わないささやかな隠し事。
(――あなたが好きです)
 多分、一目見たそのときから。けれど、きっと言ったらガロさんは戸惑ったように笑って、緩やかに首を振るんだろう。
 お互いに全てを曝け出さない距離が一番心地いいんだと、昔誰かに言われたことがある。だからこそ、彼は秘密主義なんだろう。全てを明かして、相手に重荷にならないようにと。それとも、やっぱり昔想像したとおりの職業だからかもしれないけれど。
 涼風がふんわりとわたしたちを撫ぜていった。
「ゲルダさん、ひとつ、あなたにお話しておかなくてはいけないことがあります」
 柔らかい夜の空気を切り裂くような、彼の真剣な声音。はっとしてガロさんを見ると、彼の横顔は薄暗さにまぎれてよく見えなかった。聞きたくなかった。ガロさんが話したいことって決まってる。多分、自分の素性のこと。聞いてしまったら、二度と傍にいれなくなるかもしれない。こうやって、夜風に吹かれて二人でいることができなくなるかもしれない。そんなのは嫌だ。
 けれど、断る理由もない。わたしは沈黙した。全てはガロさんに委ねることにした。
「以前、言ったと思いますが、私は既に死した身なのです。あなたは信じられますか? 昔はこの谷に、小さいながらも国があったのです。私はそこで隠密として、陰ながら支えて参りました。ですが、あの日、王家を包んだ悪なるものに、私たちは全て命を刈り取られました。私は既に死んでいます。……死んでいるはずなのです。けれども、あなたは生きていると仰いますね。これは私の勝手な想像ですが、あなたはこの世ならざるものが見える方ではありませんか? それならば、大方話がつくのです。もちろん、私は、あなたが仰るとおりどうしてか難を逃れ、生き延びてしまったのかもしれませんが……」
 そう語るガロさんの口調は、少し悲しそうだった。普通、生き延びたのなら、よかったと喜ぶところだろうに。ガロさんは生き残ったことを恥じている節がある。その気持ちは、朧気には分かるけど完璧には理解できそうもない。それはきっと育ってきた境遇の違いなんだろう。
 ガロさんの言ったことを、わたしなりに分かりやすくぶっちゃけると、つまりは“死んだ人が見える人じゃないか?”ってことだろうと思う。というか違いない。しかし、わたしは思い当たるところがさっぱりない。逆にわたしは、見えない人だと思う。恐怖体験はいつも聞いたことしかない。
「……もし、そうですとわたしが頷いたら、ガロさんは少しでも楽になれますか?」
 ぽつりと漏らした言葉を聞いたガロさんの泣きそうな表情、綺麗な顔がうつくしく歪んだその顔を決して忘れることはできないと思う。大切でたまらなかった何かを、はずみで壊してしまったときのような、痛切な後悔。そんな表情だった。
「どうもあなたは聡い方のようですね」ふっと吐息のようなガロさんの呟き。「……どうして私だけが、生きているんでしょうね。……我が王は……どうして……」
 泣かれるところを見られたくないと思うひとはたくさんいる。大方の人がそうではないだろうか。
 そっと立ち上がろうとしたわたしの腕を、ガロさんは引っ張った。
「あなたがよろしければ……もう少し、もう少しだけ傍にいてください……」
 あの怜悧な横顔からは想像もできない、掠れて弱々しい声。もう一度、横に腰掛けた。ガロさんに肩にもたれると、強い力で抱き寄せられた。少しおどろいたけれど、なされるがままになる。
 月の淡い光がわたしたちを照らしている。
 きゅっとわたしも腕を回して、ガロさんに抱きついた。その何倍もの力で、ガロさんはわたしを抱きしめる。
 夢だと思った。こんな日が来るだなんて。きっと、ガロさんはわたしに告げずにどこかへ行ってしまうのだとばかり思っていた。
 わたしは“今”を生きる人間だから、過去に縛られているガロさんのことを少しもわかってあげられない。ガロさんが何に恐怖しているのかもわからない。
 けれども、今、この時間ぐらいは素直にガロさんと触れ合っていたい。今を後悔しないように、強く、強く。

(12.09.29)

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