そして、わたしは世界とさよならをする


 迷い込んでしまったその場所で、泣きじゃくるわたしに手を差し伸べてくれたのはセツ、と名乗る男の人だった。年の頃は、青年、という言葉がぴったりだ。薄い灰色の髪に、深紫の瞳。そして、瞳の色とおんなじ深紫色のタートルネックにスキニージーンズを穿いた、細身な人。第一印象は、女の人にもててそうだなあ、だった。そう思ってしまうほど、セツさんは端整な顔立ちをしていた。
 セツさんが住んでいるマンションに連れてこられたわたしは、ふわふわしたベッドにもぐってあっという間に寝入ってしまっていた。
 次の日の朝、目を覚ましたわたしに、セツさんはその端整な顔を少し微笑ませて言った。
「いいところに案内してやるよ」
 簡単な朝食を摂って、セツさんの部屋を出る。わたしとセツさんは並んで歩き出した。周りは見たことのない建物やお店ばっかりで、わたしはどこからどのようにここに迷い込んできたのか、それすらわからなかった。まさに、気づいたらここにいた、そう言ってしまうのが一番適当だろう。見たことのないお店や建物に心奪われ、ちょこまかと動くわたしに、セツさんは何を言うでもなく、ただ道案内をする機械のように淡々と歩いていた。
 はしゃぎ疲れたわたしは、大人しくセツさんの後ろを着いていっていた。閑散としていた住宅街から、徐々に人通りの多い大通りに出た。ふと、セツさんが立ち止まったので、わたしはセツさんにぶつかってしまった。
 セツさんが立ち止まったそこは、いわゆるデパートメントステーション(わたしの造語だ)だった。駅とデパートが融合したような、そこはがやがやと人々の喧騒がうるさい。人がいっぱいいるので、気を抜いたらセツさんとはぐれてしまいそうだ。
 身長差のために生じるコンパスの違いから、わたしは自然と小走りになる。少しでも止まっている間に、セツさんはさっさと行ってしまう。案内してやる、という言葉の割には案内してもらっている感じがしない。連れ回されてる、そう言った方がしっくりくる。
 やっと追いついたわたしは、離れたくない一心で、セツさんの手を掴んだ。少し驚いたように、セツさんがわたしを見やる。だめかな、と離そうとしたら、逆にセツさんがぎゅっと握った。ちょっと照れた。
 階段を上がっているときに、突然聞こえた、人々の悲鳴。なんだろう、と視界の端に、ソレを入れようとした瞬間、

「見るなッ!」

 そう怒鳴ったセツさんは、わたしをぐいっと引き寄せた。ちらっと赤が見えたあと、視界がセツさんでいっぱいになる。セツさんがいつも着ている、深紫の服の色でいっぱいになる。驚きと恥ずかしさがわたしの頭の中をを支配した。顔はおそらく赤かったと思う。
 しばらくの間、ずっとセツさんはわたしを抱きしめたままだった。わけがわからないわたしは、抱きしめられて身動きが取れないまま、じっとしていた。やっと、セツさんがわたしを放してくれたとき、セツさんは憔悴しきった顔をしていた。
 今度はセツさんが、わたしの手を取って、すたすたと歩き出す。何かに焦っているようにセツさんの歩みは速い。おかげで、せっかく手をつないでいるのがあんまり意味を成さない。せめて、速度を落とすか、歩幅をもう少し小さくしてくれたら歩きやすいけど、そんなこと言えるわけがない。でも、こけそう。
「セツさん……?」
 いつにも増して、何も言わないセツさんが怖くて、震える声でセツさんを呼んだけれど、やっぱりセツさんは何も返してくれなかった。ただ、握る手の力が強くなっただけだった。
 セツさんはずんずんと先を急ぐ。一体どこへ向かっているんだろう。目的も目的地もわからないわたしは、ただ懸命にセツさんの後を着いていくだけ。結構、これがしんどいのだ。ずっと小走りなので、なんだかマラソンをしているみたい。息が切れる。元々、あんまり運動が得意ではないわたしは、くらりと眩暈がした。
 ふと、こつん、と何かに躓いて、わたしはこけてしまった。咄嗟に繋いでいた手を離して、顔から地面に突っ込んでしまうのを防ぐ。それでも、掌と膝を擦り剥いてしまった。
 痛みに耐えながらも立ち上がって、埃を払って周りを見回すと、既にセツさんの姿はなかった。そんなにもたもたしていたつもりはないので、背中ぐらいは見えるだろうと思っていたけれど、セツさんの姿はどこにもなかった。――置いていかれたみたいだ。掌は皮が剥け、膝は少し血が滲んでいた。
 ぽつん、と取り残されたわたしは、見知らぬ景色に取り囲まれて、泣きそうだった。心細くて、不安で、怖くて、泣きそうだった。今まで周りを気にして歩いていなかった(そんな余裕もなかったし)から、さっきの場所に戻りたくても当然帰り道がわからない。もちろん、セツさんがどこに行ってしまったのかなんてわかるはずがない。目的地すら知らなかったのに。
 知らない人、の奔流が一点に向かって集中している。わーわーとなんだか騒ぎながら。そちらへ行こうかなと思って、なんとなく嫌な感じがしたからやめた。けれど、はっきりとした行くところなんてないので、当てもなく彷徨ううちに、流れに逆らえなくなって、結局はそこへ行き着いてしまう。人だかりの中心になっているものを見たら、なんだかもう元に戻れない気がした。
 人の流れに必死で逆らって、落ち着ける場所を、少しでも止まっていられる場所を探す。このまま、人だかりの中心を見てしまったら、もうわたしはわたしでなくなってしまうだろうし、セツさんがもし探しに来てくれたとしても見つかる可能性がとっても低くなってしまうだろうから。ちょうど、辺りを見回したとき、公衆電話が置かれたそこは、妙に空間ができていたので、遠慮なくそこへ向かう。
 時計がないので正確な時間はわからない。けれど、とても長い時間が経ったようだった。最初は、我慢してたけれど、もうだめだ。とても心細くなってきた。人はいるけどいない。世界でひとりぼっちのように感じる。まるで駅のようなここには、たくさんのポスターが貼ってある。ポスターに描かれているキャラクターまでもが、わたしを嘲笑している気がする。怖いよ、セツさん。
 世界がゆがんでいく。目頭が熱くなってきた。ぽとり、ぽとり。涙が頬を通って地面に落ちていく。
 ふらふらと隅に近寄って蹲る。こんな隅っこの陰に埋もれているのが、わたしにはお似合いなんだ。やっぱり、やめておけばよかった。後悔に苛まれて、俯く。地面のタイル模様を見つめていると、不意に影が差した。
 小さく頭を上げると、見えたのはタイトな黒のスキニージーンズ。そして、頭上に降ってきた溜息混じりの疲れた声音。

「……悪かったな。ほら、泣くな。ここは恐いところだから、さっさと行くぞ」

 ――セツさんだった。後を着いてきていなかったわたしを心配して、戻ってきてくれたらしい。随分とあちこち見て回ってくれていたようだ。だから、疲れているらしい。
 もっと、涙が溢れ出る。先ほどの恐怖と、安堵感。両方がまぜこぜになった、非常に矛盾して奇妙な今の感情。
 もっと泣く動かないわたしを見て、どう思ったのか、セツさんは長い足を折って、わたしと目線を合わせてくる。優しい手つきで頭を撫でてくれる。セツさんの掌は温かかった。同じ高さになったきゅっとセツさんの首に腕を回して、抱きつく。涙はどうも収まりそうになかった。
 声を押し殺して泣いていると、「泣けばいいよ」とセツさんがぎゅっと抱きしめてくれた。お言葉に甘えて、わたしは声を押し殺すことなく泣き始めた。セツさんの深紫色の服に涙が滲みていって、もっと濃い黒のような紫に変わる。わたしが泣き止むまで、ぽんぽんと、セツさんはわたしの頭を撫でてくれていた。
 わたしの涙が少し収まってきた頃、
「京、安心しろ。大丈夫だから。俺がいる限り、絶対手出しはさせないから」
 そう言って、セツさんはわたしの涙を拭った。その言葉の意味は正直言ってわからない。意味深なセツさんの言葉は、ある意味わたしを不安にさせた。けど、わたしはセツさんにもう一度抱きつくことで、辛うじてそれを表に出さないことに成功した。セツさんは、力強く抱きしめてくれた。
 そして、抱きしめたそのまま、セツさんは立ち上がって歩いていく。ちょうど、抱っこされているような状況だ。わたしはセツさんに甘んじて揺られることにした。セツさんは無口だ。だから、わたしはいつも不安になる。けれど、今は、その辺りの喧騒さえ黙させるその沈黙が、とても心地よく感じた。
 規則正しい揺れが、眠気を誘う。あくびを連発するわたしに、セツさんはふっと笑って、寝てていい、と言った。素直に目をつぶる。すぐに喧騒は聞こえなくなって、意識が真っ暗闇に飛んでいく……。

(12.09.30)

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