彼はウェルスと隣国マグノリアの国境に広がる森の中を歩いていた。森はまるで来る者を阻むかのように鬱蒼としており、ややもすれば方向を見失いそうになる。樹々の枝葉が大きく広がり空を覆い、陽の光が差し込まないため、常に薄暗く、そして肌寒い。
 足元の落ち葉を蹴り上げながら、アグニムはその中を突き進んでいた。道なき道を足早に進む彼の五メートルくらい後方を、フーリエが小走りになって追いかけていた。
 追放を言い渡された彼は逃げるようにしてウェルスを出たが、何か当てがあったわけではなかった。しいて言うならば、あと二つ国を越えた先に、書庫代わりに使っていた家がある。住むつもりではなかったため、中には書物以外に何もないが、風雨ぐらいは凌げるだろう。
 森の中心地辺りくらいまで来た頃、べしゃっと後ろで何かが地面に叩きつけられたような音がした。彼は立ち止まると背後を振り返った。フーリエが地面に突っ伏している。どうやら辺りを這う木の根に躓いたらしかった。
(……まだ着いて来ていたのか)
 呆れよりも先に、新鮮な驚きが彼の中に満ちた。ウェルスの王女が自分を国から追放すると宣言したのち、彼女にその監視役を命じていたのは聞こえていた。但し、それは名目上のことで、国境を越えれば城に戻るだろうと思っていたのだが。
 これを真面目と形容すべきなのか、融通が利かないと形容していいのか、彼には判別がつかない。ただ一つだけ察せられることは、彼女はその命を文字通り全うする気でいるだろうということだ。敬愛する者の命令とはいえ、異を唱えもしないとは、随分と従順なことだ。
 彼は溜息をつくと、彼女の方へと歩き始めた。下は落ち葉が積もって層になっている。怪我などはしていないだろう。
 太い幹を持つ樹々が立ち並ぶ鬱蒼とした森の中、彼の背を追うことばかりに集中していたフーリエは、案の定、地面を這う木の根に躓いた。しまったと思う間もなく、顔面から地面に突っ込んだ。派手に落ち葉が舞い上がるのが、視界の端に映った。
 肘をついてゆっくりと体を起こす。前のめりに倒れ込む際、地面についた掌に若干擦り傷が見られるものの、その他特に怪我はしていなさそうだ。ふかふかとした地面に助けられた。ただ、躓いた爪先は、未だにじんじんと鈍い痛みを放っている。
「――大丈夫か」
 頭上から声が降ってきたので、フーリエは顔を上げた。アグニムがすぐ傍に立っている。呆れられているようなものの、自分を見下ろすその表情からは、何も読み取ることができなかった。
「はい……大丈夫です、アグニムさま」
 フーリエがそう答えると、彼は彼女に向かって手を差し出した。らしからぬ行動にどぎまぎしながらも、彼女はその手を取ると立ち上がった。衣服についていた枯れ葉や土を掃う。
 その様子を見るとはなしに眺めながら、彼は口を開いた。
「お前はいつまで後を着いて来るつもりだ?」
「え」
 彼の突然の言葉に、彼女は口籠った。腰が引けたが、取った手をがっちりと握られている。
 王女から命じられたアグニムの監視――。フーリエはそれが彼女の温情だとわかっている。報われなくても構わないから彼の傍にいたいと願っていた自分を、何も損ねることなく体よく送り出してくれたのだ。
 だからこそ、いつまで、などと考えたこともなかった。一生涯を懸けるつもりだった。それが終わるのは、彼か自分が死んだときだけなのだと。
 口籠った彼女を見て、彼は言葉を続けた。
「長年の生きる目的を失ったとはいえ、私も命は惜しい。当面――王女が存命の間――はこの国に近寄ることはない。もう国境は越えたことだから、ほとぼりも冷めた頃合いではないか?」彼にとっては不器用な気遣いの他、他意はなかった。「城に戻るのなら今の裡だ。遠くに来れば来るほど戻るのにお前が苦労するだけだぞ」
「わ……わたしは……」
 フーリエは二の句が継げずに目を伏せた。誤解をされているものの、彼なりの気遣いを感じる。後先考えることなく、ただ感情の赴くまま突っ走ってきたため、この問いに旨い説明をつけることはできそうになかった。
「……お気遣い頂きありがとうございます。でも……わたしがそう望んだのです。だから……その、ご迷惑でなければ、ずっと……」
 アグニムは柳眉をひそめた。いまいち彼女の言うことが理解できなかったからだ。いつ終わるともわからないことを自ら望んで? 気が触れているとしか思えない。しかし、そのことは黙っていることにした。ただ肩を竦めるのみに留め、胸中で嘆息する。
「……お前がそうしたいならば好きにすればいい。私は追放を命じられた身、あれこれと文句を言える立場ではない」
 彼はそう言うと、握っていた彼女の手を離した。
 国境沿いに広がるこの森は最短距離を突っ切ればそう長い距離ではないが、枝葉の隙間から見える陽は高く昇っていて、悠長に歩いていると森を抜ける前に日が暮れてしまいそうだ。薄暗く肌寒いこの森で夜を明かす事態になるのはなるべく避けたい。自分だけならまだしも、フーリエがいるのならば尚更に。
 彼は近くに落ちていた彼女の荷物を拾い上げた。
「荷物はこれだけか?」
 鞄は大きさの割にずっしりとしていて重たい。
「あ、自分で持ちます……!」
 慌てて走り寄ったフーリエをアグニムは手で制した。
「いい。何を入れているのかは知らないが、お前には少々重いだろう」
「アグニムさま、ご自身のお荷物は……?」
 小首を傾げるフーリエに彼は口元に小さな笑みを浮かべた。
「私は荷物を持たない主義なんだ。煩わしいから」
 彼の言葉に彼女は目を丸くした。以前、旅には慣れていると言っていた割には、通りで手ぶらだと思った。腰につけたポーチ以外に何も持っていないのはそういうことなのか。着替えなどはどうするんだろう、と疑問がちらりと浮かんだが、必要なときに随時調達するのだろうと思い直す。
「お食事とかはいつもどうされているんですか?」
「元々食べなくても動ける性質でな。腹が空いたときに適当にある物を食べている」
 事もなげにそういう彼を、彼女は信じられない思いで見つめたが、脳裏にある記憶が蘇ってくる。まだ、彼が儀式を行うためにウェルス城に留まっていたとき、フーリエは予てからの王女の命に従い、彼の身の回りの世話を続けていた。気づけば見当たらないことが多く、回数としては少ないものの、何度か食事を作って運んでいたが、あまり見向きされなかったことを思い出した。今顧みれば、あれは普通の食事より、日持ちのする軽食を持っていく方がよかったのか。
「ある物って、例えば……」
 彼女の問いに、彼は腕を組みながら思案する。
「そうだな……森なら獣の肉、平原なら鳥の肉、近くに河があれば魚。あとは木の実や果物とかか」
「……まさか、生で召し上がってないですよね?」
 恐る恐ると彼女は口にした問いに、彼は軽い笑い声を上げた。
「さすがに果実類以外は生では食べない。ただ、何でも焼けば食える」
 獣肉も鶏肉も魚も、時には木の実なども通り一辺倒に焼いてきた。生で食べたら腹を下すと言われている物は一度火を通していまえば基本的に問題ないものだ。もちろん、味など端から度外視している。
「本当に無頓着でいらっしゃるのですね……」
「選り好みしていては、いざというときに生き残れないからな」
 ウェルスの真裏にあるヒースで生まれ、各地を放浪してきたのだという彼の経歴を考えると、その言葉には確かな重みがあった。王女の乳兄弟として育ち、将来は彼女に仕えることが予め定まっていたことに不満を抱いたことがないとは言い切れない。けれども日常の生活に不自由することなかった身としては、彼に何も言えることがない。フーリエは目を伏せた。
「だが、美味い食事が嫌いなわけではない」
 フーリエの心中を知ってか知らずか、彼は言葉を続けた。
「お前の作ったものは美味かったよ」
 彼は邪気のないやわらかな微笑みを彼女に見せた。
 ピシッと音を立てて、フーリエは固まった。鈍器で殴られたような衝撃を覚えて、頭がくらくらする。何も考えられない。目を真ん丸にして自分を凝視したまま微動だにしない彼女を見て、アグニムは怪訝そうに眉をひそめると、彼女の目の前で掌をひらひらとさせた。焦点が合わないので、彼は恐る恐る彼女を呼んだ。
「……フーリエ?」
 名前を呼ばれて、ようやく彼女は我に返った。瞬く間に顔に熱が集まっていくのがわかる。微かに心配の色が見える眼差しでこちらを見ている彼と目が合い、ますます頬が火照っていく。彼女は顔を両手で覆って身悶えした。こんなみっともない様を見られてしまうなんて! 冷えた自分の手先が、熱を持った頬には心地よかった。
 やっとのことで動き出したかと思えば、見る見るうちに顔を林檎のように赤くしていく彼女を見て、彼は困惑した。度合いに比例するかのように眉間の皺が濃くなっていく。何かそんなにおかしなことを言っただろうか。全く心当たりがない。
「どうかしたのか?」
「い、いえ!」彼女は顔を覆っていた両手を下ろすと、まるで振れば振るほど熱が冷めていくのだとでも言わんばかりに、ぶんぶんと首を横に振った。「何でもありません。どうかお気になさらないで――いや、忘れてください」
 あんまりにも必死な様子の彼女に気圧され、彼はぎこちなくわかったと首を縦に振った。まだ、彼女の頬や耳の先には赤みが差している。
 彼女はおずおずと口を開いた。
「あの、アグニムさま」
「何だ」
「よろしければ、少し何かお召し上がりになられませんか。ただの軽食ですけれど……」
 彼女の言葉に、彼は微笑むと頷いた。
「そうだな、貰おう。お前も歩き詰めで疲れただろうし、そろそろ一休みでもするか。もう少し歩いたところに湖がある。その側でどうだ?」
「はい!」
 元気よく返事した彼女を見て、彼はやわらかな眼差しを彼女に向けると、踵を返した。
「こちらだ」
 そう言うや否や、彼は歩き出した。その背中をフーリエは追う。
 二人はそこから半刻ほど北に向かって歩いていた。先が見通せないほど周囲が鬱蒼としていたが、少しずつ前が開けてきた。すっかり森から抜けたと思ったら、目の前には大きな湖が広がっていた。この湖が見えたということは、今、二人はマグノリアの西側に入っているということだ。
 湖畔に腰を下ろして、フーリエは鞄の中から小さな蓋つきの籐籠を取り出した。その中から取り出したのは、バゲットに野菜と薄切りにした塩漬け肉を挟み込んだ物――サンドイッチだ。
 フーリエからそれを手渡されたアグニムは、礼を言うと食べ始めた。彼が黙々と食べているのを見て、彼女も安心したように小さく微笑むと、自分の分を口に入れた。塩漬け肉の塩気が利いているだろうからと、野菜には味をつけなかったが、野菜が少々水臭く感じる。次に作るときは、塩漬け肉を野菜の外側に挟むようにしよう。
 食べながらそんなことを考えていた彼女に、先に食べ終えた彼が声をかけた。
「美味かったよ、ご馳走様」
 急いで飲み込もうとするフーリエを見て、彼は慌てて言い添えた。
「急かすつもりはなかった。ゆっくり食べるといい」
 彼女はちらりと彼を見て頷いた。もぐもぐと口を動かす彼女はまるで小動物のようだ。何だか見ていると和む。
 自分をぼうっと眺めるアグニムの視線を感じて顔を赤らめながらも、ようやく食べ終えたフーリエは彼を見てはにかんだ。
「勿体ないお言葉です。お粗末さまでした」
 フーリエが後片付けをしているのを横目で見つつ、アグニムは空を仰いだ。湖畔からは空がよく見える。陽の位置は下がってきていた。方角さえ間違えなければ、日が暮れる頃には森を抜けることができるはずだ。
「お待たせしました、アグニムさま」
「いや、構わない。さあ、行こうか」
 アグニムは彼女の荷物を持つと、先導するかのように歩き出した。少し後ろを、嬉しそうな顔をしたフーリエが続く。その足取りは弾んでいて、喜びに満ちていた。

(2023.9.9)

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