静謐な部屋で一人、メユールは坐して主人が目覚めるのを待っている。ずっと、ずっと、待ち続けている。
 祖国は今、内憂外患の危機に晒されており、ひと時も気を抜く暇がない。此度のことだって、祖国を攻め入らんとする隣国から国境を防衛し、辛勝を上げたところに入った内乱の報せを受けて、主人・ジルベールは首都グランディアへと蜻蛉返りをせざるを得なかった。
 防衛戦で受けた傷は決して軽いものではなかったが、癒す時間すら惜しいと傷を押して戻ったジルベールは、内乱の鎮圧を果たしたあと、糸が切れたように動かなくなった。
 そしてそのまま、もう一週間が経とうとしている。季節は晩冬、やや春めいてきてはいるものの、吹く風は冷たい。この国は大陸の北の方にあり、全体的に寒冷地が多いものの、首都は国の南側にあり比較的温暖な地域だ。それでも、窓の外にはまだ残雪が積もっている。
 換気のために窓を開けるたび、メユールは暖かな部屋に入り込むその空気の冷たさに身を震わすが、ジルベールはぴくりとも動かない。
(今日もお目覚めにならないか……)
 溜息をついたとき、コンコンと軽いノックの音が聞こえた。メユールは持っていた編み針を近くのテーブルに置くと、椅子から立ち上がる。小さな返事と共に扉を開けた。
「クアリオ、殿下はまだ目を覚まされないか?」
 扉の外にはメユールの同僚が立っていた。中に入るように勧めるが、固辞するのでそのまま彼女は応じる。
「はい……まだお目覚めになりません」
「そうか……。なら、引き続き頼む」彼女の同僚はそこで一旦口を噤んだ。彼は蒼褪めた顔色をしている彼女を気づかわしげに見つめる。「だが、決して無理はするな。殿下に引き続いてお前まで倒れられてしまっては困る」
 メユールは小さく微笑んだ。
「ええ。お気づかいいただき、ありがとうございます」
 同僚は敬礼をするとそのまま踵を返して去っていく。その後ろ姿を見送って、メユールは再び部屋の中に戻る。椅子に座ると、編み針を取った。黙々と編み針を動かして編み目を作っていく。
 没頭すると、見ているようで見ていない、聞いているようで聞いていない、そんな無に至る。その感覚はおそらく瞑想に似ている。手元が見えにくくなったと思ってメユールが顔を上げたとき、もう窓の外はとっぷりと暗くなっていた。
 月明かりがジルベールを優しく照らしている。
 彫像のような彼の寝顔を見つめていると、嫌な予感が不意によぎっていく。万が一も考えてはいけないのだと首を横に振るが、一度浮かんだものは、まるで紙に落ちた染みのように消えることなく、頭の片隅にずっとこびりついてしまっている。
(このまま……目を覚まされなかったら、どうしよう……)
 じわりと視界が滲んだかと思うと、ぽたぽたとしずくが下に落ちる。泣いても仕方ないのだと頭ではわかっているが、溢れた涙は堰を切ったように止まることがない。
「――メユール?」
 彼女のしめやかな泣き声がぴたりと止んだ。メユールは顔を覆っていた手を下ろすと、恐る恐る口を開いた。
「……ジルベールさま……?」
「ああ……そうだ」そう言いながら彼は肘をつくとゆっくりと体を起こす。「世話をかけたな……メユール」
 やわらかく穏やかな眼差しがメユールを見つめている。衝撃で止まった涙が再び溢れてくる。ずっと眠っていた彼に言いたいことはたくさんあったが、今はただ、この言葉しか出てこない。
「お目覚めになられて何よりです、ジルベールさま」
 ジルベールは泣きじゃくるメユールをそっと抱きしめた。

(2023.10.1)

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