風に乗って、薄っすらの笛の音が聞こえる。物心ついた頃から、自分を慰め続けてくれていた音が。
「――やっぱり、島が恋しいですか?」
 ロレーナに声をかけられて、島をぼんやりと見上げていたオリエは我に返った。彼はばつが悪そうに頬を掻いた。
「いや、そういうわけじゃないんだ」
 二人はこの間、めでたく結婚した。今は、彼の生まれ故郷になる島を出て、別の土地で暮らしているが、今日は久々の里帰りだ。
 ふっと遠くを見ながらオリエは口を開いた。先ほどから浮かない顔――いや、どちらかというと、愁いた顔をしている。彼がそんな表情をする心当たりが、ロレーナにはなかった。
「笛の音が聞こえるんだ」
「笛の音、ですか」
 鸚鵡返しに答えながら、彼女は首を傾げた。耳を澄ませてみるが、聞こえるのは潮騒の音のみ。ロレーナには聞こえない。
 不思議そうな顔をしている彼女に、オリエは翳りのある笑みを返す。
「君には聞こえないかもしれない。もしかすると、俺にしか聞こえていない、幻の音なのかもしれない」
 そういう彼の表情があまりにも切なげで、ロレーナは眉を八の字にした。触れてはいけないやわらかなところに触れてしまったのかも。
 もう一度、彼女は耳を澄ませた。しかし、聞こえるのは潮騒のみ。どれだけ辺りの音を手繰っても、笛らしき音は聞こえてこなかった。
「物心ついた頃から、その音を子守歌代わりにしてきててね」
 彼に両親がいたっけ。ふと疑問が浮かんだが、口にするのは憚られる。ロレーナの記憶が確かなら、この島に暮らす人々は、みんな実の親を知らない。それは、オリエとて例外ではない。
 黙り込んだロレーナに気づいたオリエは、苦笑を浮かべた。何となく彼女の頭を撫でながら言った。
「別に、親がいないのを寂しいとか、悲しいとか、思ったことはないよ。俺たちには親方様がいたから」
 ただ、少し物悲しげなその音色が、いつも心に隙間風が吹いたときに慰めてくれていた。それは、いるかわからぬ両親を想う自分を慰めるかのようであり、あるかもわからぬ故郷を思い起こさせる。そのせいか、この島が故郷というよりは、この音が自分の故郷であると感じる。ただ、それだけなのだ。
「オリエさん……あの、どこか痛いところでも?」
 振り向いたロレーナは、オリエを見て、驚いたように目を見開いた。彼の両目から大粒の涙がこぼれていたからだ。
「ああ、いや、いいんだ。大丈夫だよ」
 この情動が郷愁というのかもしれない。子守歌代わりにしてきたこの音が聞こえるとき、強い郷愁を覚える。それは耐え難いほど心を強く揺さぶって、どこからともなく熱い涙を流させるのだ。

(2023.10.12)

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