既に遅い時間だが夕食は必要であるかどうか、主人に問おうと、ユダの部屋を訪れたストゥルカは着替えずそのまま寝ている彼を見た。布団も被らず寝ている彼が風邪をひかないように、自分の部屋から布団を運んでそっと上にかける。そのまま、起こさないように扉を閉めた。
 そして彼女は決意した。
 自分の部屋に戻ったストゥルカは少ない自分の荷物をまとめる。荷物とはいえ持っているのは、数枚の衣類と透きとおった紺碧の色をした石のペンダントのみ。
 ストゥルカはそれらを持つと、音を立てないようにそっと歩いて宿の玄関へと向かう。宿から出ようと扉に手をかけたとき、後ろから声がかけられた。
「逃げるのかい」
 ゆっくりと振り向いて、ストゥルカは声の主の方を見やる。思ったとおり、そこに立っていたのはシュウェットだった。シュウェットは鋭くストゥルカを見つめる。
 何も浮かんでいない空っぽな瞳をシュウェットに向けた。ストゥルカの深淵のような真っ黒の瞳に、シュウェットは少したじろいだ。無理やり笑みを浮かべると言った。
「いや何、別に責めようっていうわけじゃない。あんたの好きにすればいいさ」
 シュウェットはゆっくりストゥルカに近づき、彼女の肩に手を置いた。振り払われるかと思ったが、ストゥルカは微動だにしない。ただ、訝しげにシュウェットを見るのみである。
「何か言えばいいものを、あんたはいつもだんまりだね。あんただって口はあるんだから喋れるだろう?」
 正面から嫌味を言われても、ストゥルカは口を開かなかった。その反応に、逆にシュウェットが眉をしかめた。
「本当に人形みたいな子だね。……いいさ、どこへなりとも行くといい。引き止めて悪かったね」
 そう言うと、シュウェットは乗せていた手をひっこめた。すると、初めてストゥルカは口を開いた。しかし相変わらず空っぽの瞳をしている。
「……どうも、お世話になりました」
 一礼をして踵を返す。扉のノブに手をかけたとき、またシュウェットが声をかけた。
「あいつに言っといてほしいことはあるかい?」
 ストゥルカは、今度は振り向かなかった。
「いいえ。叶うならば、ユダ様がわたくしのことをお忘れになっておられますようにと思うのみです」
 もう一度、頭を下げるとストゥルカは宿を出て行った。彼女にあてはない。ただ、もう主人に傍にいることはできないと確信しただけなのだ。
 ストゥルカの後姿が消えるまで、彼女を見送ったシュウェットは、面倒くさいことになったと溜息をついた。

 翌日、違和感を感じてユダは目を覚ました。自分が着替えもせずに寝ていたことに驚きつつ、あくびをこぼしながら居間へと向かう。
 居間ではシュウェットがマグカップ片手にコーヒーを飲んでいた。
「おや、遅かったね。珍しいね、昼まで寝ているなんて」
 昨日は疲れましてねと流しかけたユダは、ふとシュウェットの言葉にひっかかりを覚え、聞き返す。
「今、何と言いました?」
「昼まで寝てるなんて珍しいね、と言ったよ」
 そこで初めて、ユダはストゥルカがいないことに気づいたのだった。探っても、彼女の気配が捉えられない。違和感を感じたのは、いつも起こしに来るストゥルカが来なかったからだ。
 内心当惑しつつ、ユダはシュウェットに問うた。
「あれはどこです?」
「さあ……あたしも知らないよ。朝飯の時間になっても来ないから、珍しいなと思ってあいつの部屋を覗きに行ったら、もぬけのからだったのさ」
 ユダは大きく溜息をついて、大仰に肩をすくめてみせた。
「あなたの口の滑りがいいときは、決まって何かを知っているか隠しているかしている、ということをいい加減学びました。何か知っているのでしょう」
 さあねとシュウェットは嗤った。何かを知っていると確信したユダは、指先に電流を迸らせながら、シュウェットに通告する。
「言いなさい。死にたくなければね」
 シュウェットは、彼の指先にまとわりつく、火花を散らす電流を見やって、身震いをした。それから、大仰に肩をすくめた。
「いいさ、話すよ。わざわざ隠すような大したことでもない。ストゥルカは昨日の夜に出て行ったよ。あんたが自分のことを忘れてますようにって言いながらな」
 バリバリと音がする。雷のような音だ。そんなものを撃たれては堪らないとシュウェットは、逃げやすいように少しずつユダから距離を取る。
 ユダは憤りに震えていた。
「……どういうことですか」
「知らないよ。あいつの考えてたことなんて。だが、あたしがひとつわかることがある」
「何です」
 ユダはシュウェットを睨みつける。ユダの憤りに満ちた、鋭い眼差しを真っ向から見つめ返して、シュウェットはにやりと笑った。
「あいつは徒歩だ。加えて体力がない。追いかけるなら、まだ間に合うよ」
 ユダの内心に呼応するかのように、彼が創り出した電流は激しい音を立てている。彼は何か逡巡しているようだった。電流はしばらく音を立てていたが、やがて、音が静まった。
 同時に、ユダは顔を上げる。
「……感謝します」
 呟くように言って、彼は家を出て行った。ストゥルカを追うために。
 遠ざかっていくその背中に、シュウェットは言葉をかける。
「それはストゥルカに言ってやりな。あたしは何にもしてないんだからね……」
 この言葉がユダに聞こえたかどうかは、定かではない。彼の姿が完全に見えなくなってから、シュウェットはつぶやいた。――全く、世話の焼ける奴らだ、と。

 先程は気が動転していたために気づかなかったが、冷静になってみると、ストゥルカは自分が与えたペンダントを持ち歩いているようだった。透きとおった紺碧色の石のペンダントには、ユダにしかわからない魔術の印が刻んである。元々はストゥルカの監視のために与えたものだった。
(……ちゃんと持ち歩いているのか)
 それがこんな形で役に立つとは皮肉である。ユダは嘲笑を浮かべた。
 ペンダントは思っていた以上の速さで動いている。ストゥルカの体力がないのは、確かな話だ。旅に出た初期は、それに苛々させられ、何度も彼女を愚図と罵った。
 本当にストゥルカがペンダントを持っているかどうかが疑わしくなってきた。思えば、貧弱そうで貧乏そうで、且つ、女の色気もない。そんな痩せた子供だが、紺碧のペンダントだけは人目を引くだろう。似つかわしくないとも言える。
 ユダは昨日のことを思い返す。再び、あのような事態に巻き込まれていたら、今度こそ無事である保証はない。強い焦燥感に駆られて、ユダは式を飛ばす。
 昨日と違い、式を飛ばしたユダは、何をするでもなく、近くの煉瓦造りの花壇の縁に腰かけた。目の前を、人々が忙しなく行き交う。
 腐った街・レートフェルマーク。治安は最低で、住む人々は日々の糧を得るのに精いっぱい。保身的だが他人の不幸は蜜の味。都市から追われた悪党どもの隠れ蓑、そんな人とゴミの掃き溜めの街。
 そんな場所に長居をするのではなかった。後悔をしながら、ユダは焦りと苛立ちで、とんとんと自分の腕を指で叩いていた。
 冷静になるように努め、ユダは目をつむり、気配を探る捜索網を蜘蛛の網のように広げていく。街の端から端まで縦横無尽に網を広げたときに、やっとストゥルカの痕跡がかかった。
 そちらの方向へ式を飛ばしていく。揚羽蝶を模した式は、レートフェルマークの空を鮮やかに彩っていく。忙しなく道を往来する人々も、その彩りに思わず足を止めていた。

 ストゥルカも空を行き交う揚羽蝶の群れの鮮やかさに、思わず足を止めていた。しかし、その揚羽蝶が主人であるユダの式であることに気づいた瞬間、背筋が凍り付いた。
 しまったとばかりに、ストゥルカは歩く速度を速める。早くこの街から出て、ユダの捜索網に引っかからないようにしなくては。逃げるように出てきた自分を、ユダは決して許しはしないだろう、そう思ったからだ。
 揚羽蝶が視界に入らないように、また揚羽蝶に見つからないように、物陰をこそこそと移動する。あと少しで街の外に出られるというところで、ストゥルカは一休みすることにした。慣れないことはするものではない。まだこれだけしか歩いていないというのに、既に足はじくじくと痛む。
 ストゥルカは握りしめていたペンダントを見やる。本来ならば、これも置いていくべきだったのは重々理解していた。しかし、このペンダントを置いていくということは、ユダからかけられた唯一の賞賛を置いていくと同義である。また、敬愛してやまない彼のその感性を否定することにも繋がる。
 あばら家のような小屋の壁にもたれて、ストゥルカは目をつむった。困ったことに休めば休むほど、足の痛みがひどくなっていくような気がする。溜息をついて少し回想する。
 ユダと出会ったのは、まだストゥルカが前の主人の元で働いているときだった。彼が、自分のパトロンであったストゥルカの前主人を屠ったときに初めて出会った。そのときはちょうど前主人が失態を犯した奴隷を折檻しているときだった。
 前主人は奴隷を裸にひん剥き、折檻と称しては色々なことをした。暴行や鞭打ちで済めば軽い方で、酷い場合には嫌がる奴隷を押さえつけて無理やり犯すなどの性的虐待が行われた。そして残念なことに、前主人は後者を圧倒的に好んでいた。
 幸いなことに、器量はあまりよくなく、要領はよかったストゥルカは、暴行や鞭打ちは受けたことがあるが、性的虐待はされたことがなかった。しかし、主人の側仕えをしていたがために、毎晩のように行われる性的虐待を目の当たりにしていた。
 そんなことをしている真っ最中だったがために、前主人はユダの逆鱗に触れ、炎に包まれ炭と化してしまった。ユダは汚物を見るかのような目で、震える裸の奴隷や、その他の奴隷を次々に焼いていった。
 影が薄かったのか、ユダがストゥルカに気づいたのは、ストゥルカ以外を全員焼き終えたあとだった。彼はしばし思案したあと、呆けているストゥルカを張り、今度は自分の奴隷だと厳命した。
 とはいえ、前主人の元で働いていた頃に比べると、ユダに仕えるのは格段に楽しかった。なぜならば、ストゥルカは彼の手から生み出される鮮やかな色彩に魅了されたからだ。そのうつくしい色を見るため、そのうつくしい色を生み出すユダを護るためなら、どんなことも厭わなかった。ただ、肝心の力がなかった。
 せめて、役に立たない自分がユダの妨げにはならないようにと、醜いものを排除することに努めた。だからこそ、あのときは見られた恥ずかしさよりも、見せてしまった申し訳なさでいっぱいになった。そして絶望した。
 ストゥルカは立ち上がった。くらりとよろけたが、壁に手をついて何とか堪えた。足を引きずるようにして歩き出す。あともう少しでこの街から出ることができる、そんなときだった。

「待ちなさい」
 息を切らしながら、ユダは言った。襤褸のような見慣れた衣服を着た、痩せぎすの子供の足がぴたりと止まる。
 子供は怖々と、ゆっくり振り返った。蒼白な顔をしたその子供は、やはりストゥルカだった。
「ゆ……ユダ様……」
 震える声でストゥルカは彼の名前を呟く。ユダは彼女の方へ一歩踏み出す。大きくストゥルカの肩が跳ねた。もう一歩、ユダが足を踏み出したとき、ストゥルカの体は強張った。
「帰りますよ」
 ユダは恐怖に竦むストゥルカの頭を撫でて言った。予想外の行動にストゥルカは驚いたように顔を上げた。
「お前が無事でよかった」
 そう言って、ふっと微笑んだユダの顔を、ストゥルカはきっと忘れることはないだろう。その顔とその言葉を聞いたストゥルカは思わず涙をこぼした。ユダは何も言わず、懐から出した手巾で彼女の涙を拭った。
 ストゥルカの涙が止まった頃に、ユダは彼女の手を取って歩き始める。ストゥルカはそれに従い歩き出す。あれ以降、一言も言葉を交わさずにふたりは家へと帰って来た。
 また、シュウェットはふたりを出迎えた。まるで寄り添うように帰って来たふたりを見て、シュウェットは満足そうに微笑んだ。我が子を見るかのような優しい眼差しでふたりを見つめる。
 そして視線を逸らすと、またも入れ違いに雑踏の中に消えていく。居間の机の上には、シュウェットには似つかわしくない流麗な文字で、〈Congratulations!〉と書置きがしてあった。
 ユダは心の中で余計なことをと毒づいた。書置きをストゥルカの目に触れないように小さく折り畳んでポケットに突っ込む。振り返ると、ストゥルカが立ち止まったユダを不思議そうに見上げていた。
 もう一度、ユダは笑みを浮かべると言った。
「おかえり、ストゥルカ」

(14.12.26) 加筆修正(15.09.26)

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